過去2回のsomemore peopleでは、「somemore」な精神でイラストや絵本、ワークショップなど、「つくる」人にフォーカスを当ててきました。今回はそうした「つくる」作業の手前でものづくりに携わる編集者、川尻大介さんに話を伺いました。
「ぼくにとっての『somemore』を見せてもいいですか?」
そう話すと、川尻さんは後ろの本棚からこれまで手掛けてきた出版物を取り出して、一つひとつの本に込められた思いや、完成に至るまでの道のりを丁寧に話してくれました。全2回でお届けします。
インタビューは都内にある、川尻さんが所属する編集事務所にておこなわれました。仕事場であるデスクは様々な書籍で囲まれています。きれいに陳列された佇まいから、本好きな気配が多分に感じられます。
川尻大介さんは建築書を専門とする鹿島出版会を経て、現在は編集プロダクションの一員として働いています。
そもそも編集という生業に興味をもったきっかけは、学生時代に出会ったある雑誌だったそう。
「僕が学生の頃に、建築家の馬場正尊さんが発行していた『A』という雑誌があったんです。毎号オリジナリティのある特集で、なにより建築ジャーナリズムと一線を画す誌面づくりのアプローチが伝わってきました。そのときに、こういうものを作るには編集者という役割が必要なんだと知りました。」
そんなとき、期せずして他大学で建築を学ぶ仲間と『A』の誌面づくりに関わることに。以降、本作りという活動が仕事へと繋がっていきます。
「出版の世界に少し足を踏み入れたとき、ぐっと向こうから引き寄せられるような力があったんです。そういう手ごたえってふつうそうない。デザインや建築、設計とはちがうものづくりの世界の片りんに触れられたのかなと。今思うとささやかなことだけれど、あの頃の僕にしたらとても大きなきっかけでした。」
気がつくと出版社には16年勤め、多くの書籍を手がけてきました。転機だったのは2018年の夏のこと。
「そのころ『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』という出版企画の制作が追い込みでした。若手建築家を集めて3カ月に1回ゼミナールを開講し、スライドレクチャーやディスカッションがおこなわれる連続講義の記録で、ぼくも講義にはすべて参加していたんです。」
「しかし、最後の出版物にまとめる段階で親会社の広報室に出向となってしまったんです。ブックデザイナーの造本設計まで完了していましたし、あとは形にする段階でした。幸い信頼できる同僚に後を託すことができましたが、自分のキャリアの中でも重要な位置付けになる本だと考えていたので、断腸の思いでした。」
出向先で一年が経過するころ、会社を辞め、編集者としての新しい可能性を探るためにコレクティブな動き方をしていくことを決意します。
「目指すべき目標のひとつに出版がありました。とはいえ、出版業界は新規参入が非常に難しい分野でもあります。本づくりのノウハウがあるとはいえ、既存の出版社のように大手取次を介した流通を期待しても新参者は門前払いを喰う。一朝一夕でできることじゃありません。」
新規参入が難しい世界にあえて挑戦する理由はなんでしょうか。
「自分の『編集思考』を生かす道はやはり出版だと思うからです。編集者として十数年働くうちに、身の回りにあるいくつかの話題や関心のある物事を結びつけて考えるようなスタイルが自然と身についていました。このテーマ同士をこういう風に組み合わせればこんな本ができるという具合にアイデアを展開する型のようなものがあったりする。」
実際に今まで手掛けてきた本について話を伺うことに。一冊ずつ内容や仕様について話す姿勢からは、対象となるテーマを徹底的に調べあげ、丁寧に整理されて形にしてきた編集思考が感じ取れます。
そして一通り紹介をいただいてから言われたのが、冒頭での一言でした。
「さまざまな本を形にするなかで、ときどき著者へプレゼントするための特装版もつくっていたんです。最初は製本所にも協力してもらっていたのですが、ワンパターンになるのを避けるために自分でも色々と工夫をこらすようになってきて。」
「たとえば『日土小学校の保存と再生』では、本のサイズになっているB5判がきれいにおさまる既製品のケースを買って、口絵に用いられている小学校の写真を外側に貼って仕上げました。この写真は制作の過程で生じた色校の再利用です。製本される前の面付けされた状態で切り貼りしているので、すべて1点ものです。このケースに、写真家が制作したオリジナルプリントを添えて部数限定で販売したところ、手作りながらすぐに完売となりました。」
著者のために自分が仕様を考えて表情を引き出す工夫は、少し豊かになるというか、つくった本のためにも大事なことのように思います。
川尻さんの話を聞くにつれて、なんだか自分もぐっと編集思考の世界に引き寄せられる力を感じました。
(次回に続きます)